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梅と日本

梅の歴史History

紀元前

about 1000 B.C.

「梅」の字の語源は?

梅という字は形声字で「木偏」と「毎」からなっています。「毎」は象形文字で本義は氏族社会の中で、子供を最も多く育てた母親のことです。梅が実をつける時、必ず枝枝全てに累々と実をつけていることから、そのため、人々は梅を一種のめでたい樹木と考えたようです。「梅」の字は、こうした由来で生まれたという説があります。

梅の語源は子孫繁栄でめでたい話なのですね。

弥生時代Yayoi Period

about 300 A.D.

梅は、2000年前から

梅の木の原産は中国です。約2000年前に著された中国最古の薬物学書『神農本草経』には、「梅」がすでに記載されているようです。同書では、365種の薬物を上品・中品・下品の三品に分類して記述しており、梅は中品として、「気を下し、発熱による胸部煩満を除く、心をやわらげる。肢体痛)を治す」とされているようです。梅は古くから知られています。

飛鳥時代Asuka Period

about ~ 700 A.D.

梅は鳥梅で日本伝来

日本へは約1500年前、薬用の”烏梅(ウバイ)”として中国から伝来したと言われています。これは青梅を薫製・乾燥したもので、実がからすのように真っ黒になることから「鳥梅」と呼ばれています。現在でも漢方薬のひとつになっています。

奈良時代Nara Period

about 800 A.D.

梅枝をかんざしに – 万葉集

毎年、春がやってきたら、こうして梅を髪に挿して、楽しく飲みましょう。

万葉集は、7世紀後半から8世紀後半ころにかけて編まれた日本に現存する最古の和歌集です。天皇、貴族から下級官人、防人などさまざまな身分の人間が詠んだ歌が、なんと4500首以上も集められています。中でも梅を詠んだ歌は萩に次いで多く、なんと118首もあるそうです。昔は、花と言えばまず「梅」を指していたほど、万葉の人々から愛されていました。

年のはに、春の来らば、かくしこそ、梅をかざして、楽しく飲まめ
(毎年、春がやってきたら、こうして梅を髪に挿(さ)して、楽しく飲みましょう。)

梅の花をかんざしに・・清楚で小粋ですね。

2019年春に発表された新しい元号 令和(れいわ) は万葉集にある「初春の令月にして 気淑く風和ぎ 梅は鏡前の粉を披き 蘭(らん)は珮(はい)後の香を薫らす」との文言から引用され、この「令和」には、人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つという意味が込められています。

平安時代Heian Period

about ~ 950 A.D.

梅干が日本最古の医学書に

平安時代に丹波康頼撰が著した日本最古の医学書『医心方』の「食養編」には、すでに梅は梅干として登場します。「味は酸、平、無毒。気を下し、熱と煩懣を除き、心臓を鎮め、四肢身体の痛みや手足の麻痺なども治し、皮膚のあれ、萎縮を治すのに用いられる。下痢を止め、口の渇きを止める」と記述されており、人々のあいだで梅干が薬用として用いられていたことがわかります。

また、後の江戸時代の辞典、和漢三才図会にも梅は記載されています。昔からさすが梅は薬の意味合いがあったのですね。

梅枝の鶯へ

平安時代のこと。御所の梅の木が枯死したので代わりの木を探し求めさせたところ、歌人・紀貫之の娘の屋敷の梅が名梅であるとして御所に移植されることになりました。

別れを惜しんだ娘は「勅なればいともかしこき鶯の 宿はととはばいかがこたへむ」(帝の御命令でございますこと、贈呈致します。しかし、毎年この庭に来てこの梅の枝に宿る鴬が我が宿は如何したかと尋ねられたならばさてどう答えたらよいのでございましょう)という一首を詠んだところ、村上天皇の目にとまり、哀れに思った天皇の命で梅の木は娘の元に戻されました。

この逸話の梅を「鶯宿梅」と称します。

鎌倉時代Kamakura Period

about 1300 A.D.

大盤振舞の語源 – 椀飯に梅干

気前がいいことを「大盤振舞」といいますが、この語源にも梅がかかわっています。鎌倉時代の大切な儀式のひとつとして、元日より数日にわたり有力な御家人が将軍に対して椀飯を奉る「椀飯振」というものがありました。献立は椀飯と打鮑・海月・梅干の3品に酢と塩を添えたもので、折敷に載せて出したといわれています。「椀飯振」がのちの「大盤振舞」という言葉の語源となったそうです。

室町時代Muromachi Period

about 1400 A.D.

梅干で戦も元気

室町時代、梅干は食欲亢進剤として、武士の間で用いられるようになりました。戦国時代になっても、梅干しはまだ食品ではなく薬でした。梅は武士の時代、戦国時代の戦の際に食べられた野戦糧食の一つでした。栄養を手早く摂取でき携帯しやすいことや、保存性、手に入りやすさや作りやすさなどが重宝されたのです。これが、梅の木が全国に広がったきっかけと言われて名所が各地にあります。

安土桃山時代Azuchi-Momoyama Period

about 1580 A.D.

梅×秀吉×千利休

ある春のこと、豊臣秀吉が床の間に置いた水を張った大きな鉢の傍に、紅梅一枝だけを添え、千利休に「この鉢に、この梅を入れてみよ」と命じました。側近たちが「これは難題だ」とハラハラして見守っている中、利休は平然として紅梅の枝を手に取ると、紅梅の花とつぼみだけをさらりと鉢に入れたのです。水面に浮かんだ紅梅の花の風情に、秀吉は上機嫌になったといいます。さすが・・・利休さん。

江戸時代Edo Period

about 1600 A.D.

梅と徳川家康

徳川家康が晩年を過ごした駿府城には美しい梅の木がありました。熟すと種が二つに割れる大変珍しい木で、実割梅と呼ばれていました。当時、駿府城ではこの実割梅から梅干を漬け、東照宮に納めるしきたりだったようです。この木は、徳川家康公が自ら植えたものと言われており、木はその後、駿府城から東照宮の境内、唐門下に移植されました。

梅で「福面」

江戸時代の銀山では、鉱山病が深刻な問題となっていました。そこで対策として、梅肉を使ったマスクを使用してみたら効果が絶大だったそうです。鉄の枠に梅肉を挟み薄絹を張った防毒マスク「福面」は、酸の効果で鉱塵を寄せつけず、口の中も乾燥しなかったといわれています。世界遺産の石見銀山でも、「福面」は鉱山で働く人々に効果があったと言われています。

紀州の梅干が江戸へ

紀州の梅干が木樽に樽詰めされ、江戸に向けて船でたくさん出荷されました。

薬用として珍重されていた梅干が庶民の食べ物として広まったのは江戸時代のこと。江戸の人々の梅干を食べる習慣が全国に広がっていき、梅干の需要は次第に高まっていきました。。当時の梅干は塩分20%前後のしょっぱいもの。また、朱色のしそ漬梅干が出来たのも江戸時代になってからとされています。

about 1620 A.D.

みなべで梅栽培の始まり

江戸時代、あまり米が育たないみなべの田畑を見た藩主は、お米ができない山の斜面に生命力のある梅を植えさせて、年貢の軽減と農作物の育成に努めました。そして、みなべ周辺に「やぶ梅」の栽培が広がっていきました。

やぶ梅は果肉が薄く小粒だったため、長い年月をかけて土地の人々が品種・土壌の改良を重ねた結果、現在の南高梅のような肉厚で大粒の梅が実るようになりました。

about 1800 A.D.

梅とコレラ菌退治

江戸末期になって、諸外国からの来訪者が増えたことで疫病が大流行し、1800年ごろには全国で2回、コレラが流行しました。このときに梅が大活躍したのです。

コレラ菌が有機酸に弱い菌であることは知られていませんでしたが、当時の人々は体験から、梅干には強い殺菌力あることが知っており、治療に役立てていました。その後、明治8年のコレラ流行の時にも梅が活躍しました。梅干はコレラ菌にも強いのですね・・・。

大正時代Taisho Era

about 1925 A.D.

梅と家庭医学書

赤本は、大正14年(1925年)の初版刊行以来、現在まで版を重ねる家庭医学書です。総発行部数1000万部を超える、大ベストセラーです。その赤本に梅肉エキスの効能が記載されています。多くの健康法が出現し、流行し、また忘れられていった中、今でも読み継がれ、梅の活用が記されているようです。

昭和時代Showa Era

about 1950 A.D.

いよいよ最高品種の南高梅が誕生

和歌山県(紀州)の南部村(現・みなべ町)の高田貞楠さんが明治35年、梅の苗を購入し栽培する梅の中に、ひときわ豊かに実り、大粒で美しい紅のかかる優良種が一本あることを発見し、これを母樹「高田梅」とし大切に育てました。その後、昭和に6年この母樹の枝を穂木として譲り受けた小山貞一さんによって受け継がれ大切に育てられました。

昭和25年優良品種の梅を探すため、数十種に及ぶ梅の品種の中から優良な梅探しが始まり、5年間の調査の結果、高田梅が最も風土に適した最優良品種と認められ、このときの調査に尽力したのが南部高校の教諭、生徒たちでした。

南高梅の「南高」の由来は、品種選定に協力した「南部高校」の先生、生徒たちの意味と「高田梅」の頭文字の意味もあります。

昭和40年、この「南高」の名称で種苗名称登録され、現在では、「南高梅」は日本一の梅として広く知られています。

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